「大志塾だより」 47号

心は常に大を志向せよ!
「以武会友」武道を以て友となす

「道」・究極の術技を求めて 第2回

 
 前号で書きましたが(読み直してください)西洋的近代スポーツ思想に立脚した競技空手では、ポイント重視による「数」「結果」に価値観や合理性を置き、それに対し日本武道では技の「質」「内容」に
価値観や伝統性を置いています。
 この技の「質」「内容」を高めるのに有効なのが「型」なのです。
日本の伝統芸能や武術は「型」を媒介として古より心と技を継承して来ました。
 「型」は先師が遣したすぐれた伝承システムであり、日本独自のものなのです。
後の人が学びやすいよう、無駄を省き本当に必要なものを体系化したものです。
この「型」を通して技と心が同時進行的に発展的していかなければ、真の意味での(武道が本来求めている)成長とは、とても言えないと思います。
この様な我々が武道に求める文化的特性について「弓道」と「洋弓」(アーチェリー)との比較から学んでみましょう。
「普通、目的達成のために道具を使用する場合、道具の精度によって大きく成否が分かれます。洋弓の場合、射の精度を上げ、的中率を高めるために弓・矢の材質や形状、重量についてハイテクを駆使して研究・製造されています。
また、照準器を装備したり、姿勢を維持する為のスタンビライザーや衝撃緩衝のためのロッドを装着させるなど的中という目的に対して、合理性ということを第一義として考えられています。これはスポーツの世界ではごく当たり前のことです。これに対して日本の弓道は、的中という目的達成を自己の外に求める態度を拒絶しているように思われます。これは人間の手業を尊重し、成功も失敗も自己の修練と自己の働きにのみ還元させようという姿勢の現われだと理解できます。
この様な姿勢は射手の意識をどのように弓を操作するかという自己の外側ではなく、自己の内側に向けさせ、自己の変革こそが上達への唯一の道であるということを、射手に気づかせてくれたのではないでしょうか。そして努力・集中・冷静・判断・反省という人間的な働きが、計り知れないほど多くの実りを与えてくれるのだということを教えているような気がします。」
           (湯浅 晃、武道伝書を読む)
この様な思想が日本の文化・武道の妙と独自性であり、我々も心技の充実を図り再現性ある究極の術技を目指して日々鍛錬していきましょう。
                    つづく

 
参考・・

スポーツ化への道を歩みつつある空手

 今日、柔道は多くの人々から「子供スポーツ、KINDER SPORT」と呼ばれている。
それは、柔道を行うのが主に子供と青少年であることによる。オリンピック種目である柔道では、競技・年齢を過ぎた後も継続して実践していけるような何らかの方策が用意されているわけではない。
日本では熱心な柔道家が減少しているというが、これも同じ方向を示していると思われる。
大半の人にとって、柔道を一生続けることなど、もはや意味をなさないのである。
柔道は、ほとんど達成スポーツだけに準拠しているので、もはや大部分の人々の要望や欲求を満たすことが出来ないのである。すでに柔道が歩み終えてしまったのと同じ過程を、現在の空手(WKF・全空連)は経過しつつある。とうの昔から、スポーツ的成果が多くの空手家の活動の中心になっている。換言するならば、競技での勝利という結果を目指し、稽古がスポーツ、トレーニングに移行し、科学的に合理化されていくことを意味している。空手をオリンピック種目として受け入れるならば、そこに商業的な刺激が加味されて、この過程が完結することになるだろう。しかし、その後には独自の価値システムや稽古システム、つまり独自のアイデンティティを持つ日本武道は、西洋的価値に支配された格闘技型スポーツに移行してしまうことになるだろう。
大切な何かが失われる一方、それとは異なる既存の西洋的形式が、そこに組み込まれてくるのである。
西洋型モデルに基づくスポーツ化が進行すれば、空手に特徴的なメルクマール、空手が保持してきたアイデンティティを放棄することにならざる得ない。空手本来のアイデンティティの喪失は、余暇活動市場で空手が占めていた居場所の喪失に必ずや繋がってくる。
日本武道というアイデンティティを有する空手がスポーツに移行すれば、空手が獲得できたはずの顧客さえ失うことになるだろう。
空手には本来、年齢的に特化された集団など存在しなかった。反対にあらゆる年齢の人々のもとで生涯に渡って行われうるのを、空手自らのためにも要求できたのである。スポーツ的達成によらず、学び手の年齢に臨機応変に合わせることが、空手の稽古法には含まれていた。
それによって意味ある営みが年齢の壁を越えて、可能となり、年齢に応じた欲求も満たすことができるとされたのである。達成スポーツ化された条件下では、空手実践者のほとんどが達成指向的な子供や青少年だけで構成されるようになるだろう。
つまり、空手を生涯的に行うこと、もはや無くなってしまわざる得ないのである。

武道としての空手の文化的独自性」
       ミヒャエル・エーレンライヒ 著

※実際、どこの道場も子供ばかりの様子です。 でも大志塾は違います。

武道学入門・・兵法家伝書 新シリーズ 第4回


「外は静かに、内は厳しく」

 風や水の音を聴くということは表面は静かに内心を積極的にもつ心得である。
風にはもともと音はない。それが物に当たると声が出るのである。
したがって高いところを吹く風は静かで下に来て木や竹や、さまざまの物にあたる時、その声は騒がしく、忙しげになるのである。
水も上から落ちて来る時は音がしない。物に当たりぶつかって声をたてるのだ。
この事にたとえて表面は静かに内心は積極的に気を働かせ、油断なく保つことをたとえたのである。体・手・足がせわしそうなのはよろしくない。兵法に於いて内心には気を働かし、油断なく保っておきながら表面は騒がず静かにするのが天然の道理と一致するのである。一方、表面に於いて激しく攻撃に出る時には、内心をその働きに引き込まれぬように静かに保つことによって、表面の働きが乱れぬように出来る。もし、表面・内心ともに激動すれば乱れてしまうものだ。このように「懸」と「待」「動」「静」は内心と外面に於いて互いに違いとすべきものである。

「解説」・・・
「風水の音をきく」という秘伝は柳生新陰流の大事とされているが、その解釈には諸説がある。柳生十兵衛は、その著書「月の抄」の中でここに揚げた柳生宗矩の説とならべて「勝負の最中にあっても、風水の音が耳に入るほどの心のゆとりを持て」という解釈をしている。「風水の音」の解釈としては、たしかにこの方が無理がない。しかし、この表面と内面の使い分け、およびその統一についての議論は、核心をついた見事なものである。 
                     つづく

ベスト空手・・・


 今までにこのシリーズで「突きのコース」「肩の使い方」「スピード」「力の集中」「前腕のひねりの効果」「腰の回転」「丹田と腰」「前屈立ち」「打ち技」等を取り上げてきましたが、今回は「エンピ」を取り上てみたいと思います。

エンピ(猿臂打)当

 肘そのものを前・横・後に張り出し、押し出し、あるいは横に回しまたは下から突き上げ、打ちおろして目標に当てる。抱きつかれ、手をつかまれたりして上体の自由を拘束された時、危地から脱する手段としては、その効果とともに有効である。初心者にも充分に使えるのでよく稽古してください。

ポイント

1、拳や前腕は、上体から離さず腕や脇腹をこすりながら移動させ肘を押し出すように

2、前腕をひねりながら打ち当てる方が、より大きい効果が得られる。

3、肘は深く、十分に屈している方が威力が大きい

4、接近からの攻撃のみに有効

5、腰の力を肘に(上半身を柔らかく使いましょう)

お知らせ


☆支部認可おめでとう!
 
 池田周作氏が指導を務める、赤羽支部の分会であった大志塾中野道場が本年4月より「城西支部」大志塾として総本部より正式に認可されました。
 中野区・杉並区・練馬区を視野に入れ城西支部としました。
これからの益々の活躍・発展が期待されます。 頑張ってください。  押忍!

(※昇段審査などでよく、大志塾○○支部と書く方がいますが、大志塾というのは我々仲間内の呼称であり、大志塾という名での支部認可は受けていませんので、気を付けて下さい。)

日本、その姿と心


 現在、国際化が進み外国からの情報が大量に流入していますが、我々日本人は日本の伝統・文化などの知識を持っているでしょうか?真の国際化(人)と言うのは、自国の文化・伝統を理解した者同志がそれぞれの自己主張とその相互容認の上に成り立っていると思っています。
これからも、外国に対しての認識を深めると共に、外国の人々にも日本を理解してもらう為に、自国の文化歴史を学ぶ必要があると思います。そこで、第二一回は「北方領土」を見てみましょう。

第二一回「 北 方 領 土 」 第四回

 なぜ、どのようにして我国国有の領土である北方四島が占領されたのか大志塾の皆様はご存知でしょうか?

「日本の領土という根拠」

 現在ロシアによって占領されている北方四島は、1855年のペリー来航から2年後に伊豆下田で日ロ通好条約を締結した際、第2条で両国の国境を「エトロフ島とウルツプ島との間に」置くとした。
この時から両国で四島は互いに日本の領土であることを認めた。
その後、1875年に日ロ間で南樺太と千島列島との「交換条約」を結んだ。
それにより今後、千島列島全島を日本の領土とし樺太全島をロシアの領土とすることにした。
それまでの樺太は日本人・ロシア人の混住の地であったのを、日本が全千島列島をロシアから譲り受ける代わりに樺太全島を放棄するとして結んだ条約である。
つまり、北方四島から北はロシア領のクリル列島であったのを、北方四島を起点に北へ向かってカムチャッカ半島の手前まで、1つながりの列島全体を日本領の千島列島とし、その代わりに樺太のすべてをロシア領とすることを互いに合意し認めたのであった。
その後、日露戦争で勝った日本は1905年ポーツマス条約によって、先に北千島と交換した南樺太が戻って来たのである。
つまり終戦までオホーツク海域で樺太の北半分を除く部分は、すべて日本領であった。
以上の経過の、どの部分・時代を見ても北方四島は一貫して日本の領土であり侵略とか交換などによって得た領土ではない。   つづく・・・

(この時代の樺太については、アイヌ人・ギリャーク人・オロッコ人・山丹人などの北方系民族が住みついていたとあります。そこに日本人やロシア人が住みつき清国なども手を伸ばしたそうです。その辺の事は次の本をオススメします。
「講談社文庫「間宮林蔵」 吉村 昭 1987年」
とてもおもしろいので、ぜひ読んでみて下さい。)