大正11年(1922年)5月、沖縄尚武会会長を務めていた船越義珍先生は、文部省主催の第一回運動体育展覧会において、初めて琉球唐手術を本土に紹介しました。その後、講道館柔道の嘉納冶吾郎先生に招かれ、形や約束組手を演武することになります。これが、唐手術が中央に公式に紹介された第1歩となります。

「唐手」から「空手道」へ

その後、各方面から指導要請が相次ぎ、船越先生は「明正塾」「有信館」「真砂町道場」などで指導に当たられました。初期の門人には、柔術や剣術の免許皆伝者も多く、本土の武術の影響を受けながら、より力強く、洗練され、調和された動きへと高まり、独特のスタイルへと進化していきました。また、唐手から「空手道」へと改名し、沖縄独特の呼び方を標準語に改名したことは、大変な決断だったと言えます。

門人が著しく増える中、昭和10年には同門の有志によって「道場建設委員会」が組織され、翌昭和11年(1936年)には、日本における正式な空手道場が豊島区雑司が谷に建設されました。道場の玄関には義珍先生の「雅号」に因んで「松涛館」という看板が掲げられました。これが松涛館流と呼ばれる由縁であります。その後も、松涛館流は普及発展し、現在では世界の空手道の大多数を占める「Shotokan style」と呼ばれるまでに普及しております。